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【翻译】种命新蓝光box 特典访谈(后藤篇)

2023-07-30 00:36:42 来源:哔哩哔哩

注:本文也在高达吧发布


(资料图)

拿到新的蓝光BOX之后就第一时间把特典拿出来翻了翻,发现里面有些值得发出来分享的东西有最新的内容,也有可能是老早的访谈

目录介绍 寄稿 後藤リウ (小说作者,最近的剧场版也有参与)seed destiny的轨迹 —杂志篇— (统计了seed destiny播放当时的杂志)铃村健一 &石田彰&保志总一朗 采访大河原邦男 采访机动战士 设计相关集(介绍设计ms的一些想法)福田己津央 采访结语目前已经翻译完了后藤先生的部分目前预定翻译的内容(包含发布顺序)是福田的采访→铃村等人的采访 剩余因为我个人还有其他翻译工作,可能就会单纯扫图发上来发布形式是先发翻译稿内容,再发日文原稿(文字或者拍摄,扫图)如果有翻译问题欢迎有识之士指出发布原稿也是为了防止有人说我乱翻)如果有疑问到时候可以自行找高手来确认

正文部分

介绍

寄稿

2002年冬天,我背着一个很大的背包,来到了日升本社。

为什么要带个背包,是因为把之前送到我这来的资料和剧本都一股脑的塞了进去,没什么力气的我只能想到这么个办法。

那时候咕噜咕噜转的旅行箱还没普及呢,如果有的话我肯定会选它了。

那次是有关《SEED》小说版,第一次的协商会议。

对不过是一名高达粉丝,身为刚刚出道的作家的我来说,这还是一件难以置信的事。曾经默念着《机动战士高达》里的台词,和朋友们一起玩扮演游戏时候那个傻乎乎的中学生自己,居然会有这么一天。

之后很快知道,这次“协商会议”只不过是碰面聚首而已,根本不用带资料或者剧本,当然也用不上什么箱子。

如果知道的话,就会穿得更得体些了吧。因为和背包不太搭调,在着装上是放弃了。明明是值得纪念的头次日升之旅,结果我居然就穿着件红色毛衣和牛仔裤这种没品位的着装。

但是,直到现在也时常会回忆起背着个包来首都的自己。那个不了解业界(即使现在也不太了解),对小说改编的常识也不懂,仅仅一根筋认真努力的自己。

一想到中学生时期非常喜欢高达的自己,自然就会变得认真起来。

所以,在小说改编的时候,尽量注意做到对作中的台词不改一词一句。要改动默记的台词,如果是我的话肯定会觉得反感吧。

关于机动战士和机械的数据和设定说明,也尽量在作中放入了。

虽然参数书之类的会绝版,但是高达的小说会一直保存下来。现在也能读到《机动战士高达》的小说。就这么如果10年,20年后有人在读《SEED》的小说,这将成为那些人的数据参考

——不过嘛,到了现在这个时代,只要在网络上搜索一下就很容易找到资料,所以那个时候的崇高志向也没什么太大意义了。

说是如此,但当时也有不少麻烦事。

《SEED》里引用的科学技术有许多难懂的部分,要把那些自己都难以理解的东西解释成易懂的内容告诉读者是件非常困难的事。

幸好我曾是个SF迷加宇宙开发迷,所以质量加速器或是光压推进,都算是比较快就理解了。

比较难懂的是《destiny》开头的火纹驱动机。就是推动尤利乌斯7号落向地球的那个玩意。

简单来说就是把尤利乌斯7号化作巨大的电磁石这么一回事……具体的请看小说。如果看小说也看不懂的话那就是我和我的脑袋太笨的原因,非常抱歉。

总之我靠自己那时候完全搞不懂原理,所以在协商会议(正式的会议)时请日升的负责人好好的求教了一下。当时我听的很认真,眉头都皱起像条峡谷一般,总算是理解到能写进小说的程度,却在动笔的时候就忘了一半。

让人火大的是同行的编辑负责人说“后藤先生,已经听懂了吧?那这样就行了”,摆出这么一副自己完全不打算去了解的态度。一起受难啊!我就这么暗地攥紧了拳头。

没办法,他是那种提到光压推进也大大方方说出“我的宇宙里光没有什么压力”的科学白痴。实在过于直白,让人感觉十分坦荡

如果将来有想要写高达小说的人读这些,就请好好听我罗嗦几句。趁现在好好的补习一下数理方面的基础会比较好。

小说家周围只有文科的人,编辑和校对也高几率是高纯度的文科生。关于科学知识,小说家只能依靠自己。非常遗憾。

现在也让我心怀遗憾的是,在当时动笔的时候还没有情报,到了放映后半的时候和前半出现了矛盾的地方,具体来说就是塔利亚舰长和迪兰达尔议长的关系。

从小说来说就不得不描写登场人物内藏的一面,以及内心活动。这就是小说的魅力所在,但是时常也会过于深入导致失败。

简单来说

诶诶诶?塔利亚和迪兰达尔以前是恋人?这种事我不知道啊!!!

就是这么一回事。

也许在《destiny》刚开始那会不仅是我,谁都没法知道吧。也许是故事逐步推进时完善出来的设定也说不定。故事因为这些来推动也算是一种乐趣,对观众来说的话。

但是对写小说的人来说就该抱头了。

这就是和播放同一时期出版的小说版的可怕之处。如果在全部放映后稍稍沉浸在感慨里,回过头来进行各种分析,再详细的写就好了,

……不,这么一来难度也会上升,也叫人为难。

某种意义上,我也是观众的一员。是观众里的专家。

特别是难以跟上《destiny》的情报,关于机动战士的情报基本是参考月刊模玩日本的。毕竟就情报来说最为快捷最详细,那段时间真是帮大忙了,模玩日本。

我真的就只是个观众而已。

总之,我也和大家是一样的,每周“真好可爱”“史黛拉好可爱”“尼奥,把我的眼泪还回来!”“哎呀,阿斯兰真是~!”这样,每周在那垂头顿足的。

我写的东西说到底,只是后藤柳自己解释的《SEED》,别的观众有自己各自的解释是理所当然的事。

虽然想尽量忠实原作来小说化,但是只有一处,想在小说版里更改的部分。那就是最后基拉和迪兰达尔对峙的场景。

在那个场面里,怎么都想要让真也参与到里面去。《destiny》的小说版里,因为一直是把真当作主人公来写的,所以感觉他不在那个场面里是非常违和的一件事。而雷也想最后让他们见上一面。

但是,基拉进来, 然后阿斯兰也进来了,如果最后再让真登场,这就成了滑稽短剧一样。连续三次是搞笑的基本。

正因如此,才和日升的负责人们一起竭尽脑汁,写成了那种形式。通过通信机,和雷最后说上了几句话的形式。

就我自己来说,这已经算是努力过的价值了。

听说这个作品是受到2001年911事件的影响而创作出来的。

我自己也因为那次事件受到了强烈冲击。因为身为作家,深夜一个人打开电视机,等于是刚好同一时刻目睹了贸易大厦崩塌的情景。

而这一时候,就在想我写的这些虚构作品到底有什么意义呢。

我在写的东西,和打算写的东西,总感觉它们逐渐变得稀薄起来。这些我至今为止一直感到乐趣喜爱,认为比什么都重要的东西。

就像311东日本大地震的时候,也有很多同样感受的创作者在。

那时候的我也被烦恼和无力感所侵袭,和别的作家一起商量谈心。

“别想太多了”

得到的是这样一句话,可怎么样都没法不去思考。

就在这时候,我碰上了《SEED》的工作。

这份作品,让我能发自内心的思考,能够去烦恼事物。所以我和登场人物们一起,思考,烦恼,寻求着答案。

战斗到底是什么。敌人又是谁。人们为什么不愿放弃争斗呢。

这里没有明确的答案。

我也没有找到答案。但即便如此,我也通过思考,通过撰写,从某些东西里解脱出来了。

感觉自己又能脚踏实地站着了。

不如说,寻求明确的答案,本身就是一种错误也说不定呢,

在现在这个时代,人们容易走入极端。无视现实,主张那些偏激意见的人,不知为何反而受到欢迎。

不是黑就是白,这样直接斩钉截铁的说出来,确实会让人感到爽快。

但是这世间充满着多彩的颜色,不可能只靠一句话就全部总结完毕。希望靠言语谋生的人们,要学会自省。

只靠一种单纯的法则,来说明世界的一切——要小心主张这种论调的人,这就是我想说的。

这个作品的《命运计划》就是这么一回事吧。

遵从基因所带来的适性,给每个人分配自己合适的职责,让社会得以安定的计划。

像我这样野犬一样的人,听到这个恐怕就会呲牙咧嘴的反对吧。

但是说不定,对于活在此刻的现代人来说,也许是能被接纳的计划也说不定。

遵从《命运计划》的话,就不必走弯路,能够找到和自己最合适的工作。而这样就能为社会作贡献。就算想要抱怨也没意义,哪怕为此痛苦,谁叫自己没有好基因呢。

这算是最近常见的《自我责任论》的究极形式吧。

但是,对痛苦的人说“这是你自己不好”的论理,只不过是给执政者的行为正当化的手段罢了。而这种论理,如果民众自发的来拥护,那可能不会是什么好事。

现在世间正变得不太安定,不知道明天究竟会怎么样。

撰写剧场版的剧本时,也出现了很多难以预测的事态。

自《SEED》播放以来也过去了20余年,包裹世间的气氛和状况也大幅改变了。

(毕竟旅行箱和那时候比起来,已经这般普及了)

(说起来背包也比那时候更加流行来着)

世间虽然变了,但是在这作品之中,仍有尚未过时,还有称得上普遍的事物存在。还请享受这些,好好咀嚼,花上少许时间都行,好好的思考一下。

哪怕没有得到答案也无妨。

我参与的剧场版,它的根据也是建立在非常普遍的主题上。

我发自内心的期待,它能成为超越时代被喜爱的作品。

原文:

Introduction

寄稿

2002年冬、わたしは大きめのリュックサックを背負って、サンライズ本社を訪れた。

なぜリュックかと言うと、その中には送られてきた資料やシナリオがどっさり詰まっており、非力な私にはこれ以外の運搬方法は考えられなかったからだ。

あの頃コロコロ運べるキャリーバッグはまだ一般的でなかった。もしあったら絶対コロコロ一択だっただろう。

『SEED』小説版、初の打ち合わせだった。

一ガンダムファンにすぎない、駆け出しの作家である自分にとって、まったく信じられない展開。『機動戦士ガンダム』の台詞をそらんじて、友人たちとごっこ遊びしてたような、アホな中学生だった自分が、まさか、こんな。

すぐ後に判明するのだが、この『打ち合わせ』はあくまで顔合わせ的なものにすぎず、資料もシナリオも必要なかった。もちろんコロコロも。

もし知っていたら、もっとおめかしして行ったのに。リュックに合わないからおしゃれ着は泣く泣くあきらめた。記念すべき初のサンライズ訪問だったのに、私ときたら赤いセーターにジーンズという冴えない服装だった。

だが、いまも時折、このときリュックを背負って上京した自分を思い出す。業界のことも知らず(それは現在もよく知らない)、ノベライズのルーティンも知らず、ただただ真剣でバカ真面目だった自分。

ガンダムが大好きだった中学生の自分を思えば、真剣にも真面目にもなろうというもの。

だから、ノベライズにあたって、作中の台詞はできるだけ、一言一句変えないように気をつけた。そらんじていた台詞が変えられなんて、自分だったら嫌だろうと思ったから。

モビルスーツやメカのスペックや、設定説明なども、作中でできる限り入れた。

データブックの類いは絶版になってしまうけれど、ガンダムの小説はずっと残る。いまも『機動戦士ガンダム』の小説は読めるのだ。十年後、二十年後にはじめてアニメ『SEED』を観る人がいるとしたら、その人たちのデータ補助になるように、と。

——まあ、今となってみると、ネットで検索すればデータはいくらでも出てくるので、このときの崇高な志はあまり意味がなかったのだが。

とはいえ、大変なことは結構あった。

『SEED』に出てくる科学技術は難解なものが多く、自分でも理解しにくいものを読者にわかりやすく伝えるのはかなりハードルが高い。

幸い自分はSFファンで宇宙開発ファンだったので、マスドライバーとか光圧推進とかは、わりとすんなり理解できた。

難物だったのが、『DESTINY』冒頭のフレアモーター。ユニウスセブンを地球に落とそうとするアレだ。

要するにユニウスセブンを巨大な電磁石にしてしまうということなのだが…くわしくは小説をご参考いただきたい。小説を読んでもよくわからないとしたら私と私の頭が悪いですゴメンナサイ。

とにかく自力ではまったく原理が理解できなかったので、打ち合わせ(このときは本格的打ち合わせ)時にサンライズの担当者さんに、しっかりレクチャーしていただいた。眉間に深々と峡谷ができるほど真剣に聞き、なんとか小説に書けるくらいに理解できたのだが、書いたとたん半分くらい忘れた。

頭に来たのは同行した担当編集者さんが『後藤さん、理解できましたか?ではもういいです』とまったく自分では理解しようとしない態度だったこと。一緒に苦しめ!と、ひそかに拳を握りしめた。

しかたない。彼は光圧推進も『僕の宇宙では光に圧力なんてありません』と堂々と言い切っていた科学音痴。あまりに堂々としていて、むしろすがすがしささえ感じる。

もし、将来ガンダム小説を書きたいと志する方がこれを読んでいるとしたら、老婆心ながらご忠告したい。今のうちに理数の基礎をしっかり勉強しておいたほうがいいと。

小説家のまわりに文系の人しかいない。編集者も校正者も高確率で純度の高い文系だ。科学知識において、小説家は自分だけが頼りなのだ。残念ながら。

いまも心残りなのが、書いた当時はまだ情報がなく、放映後半になって前半と矛盾が生じてしまったところだ。具体的にはタリア艦長とデュランダル議長の関係なのだが。

小説だと登場人物の内面や心の動きを書かざるを得ない。それが小説の魅力になるのではあるが、たまに踏み込みすぎで失敗することがある。

端的に言えば、

えええー?タリアとデュランダルが昔、恋人どうしだったなんて知らなかったよー!!!

である。

もしかしたら『DESTINY』開始直後には私だけでなく誰も知らなかったのかもしれない。物語が進むうちに熟成していった設定なのかも。そうやって物語が動いていくのも楽しみのひとつだ。視聴者としては。

だが小説担当としては頭を抱えた。

これが放映と並行して出版されてゆく小説版の怖いところ。放映後にしばし感慨に浸り、遡ってあれこれ分析してから、ゆっくり書けたらいいのに。

……いや、それはそれでハードルが上がって困るか。

ある意味、私は視聴者の一人。視聴者のプロフェッショナルだと思っている。

とくに『DESTINY』は情報が追いつかず、モビルスーツ情報は月刊ホビージャパンにほぼ頼っていた。一番情報が早くて詳細だからだ。その節はお世話になりました、ホビージャパンさん。

本当にただの視聴者じゃん。

というわけで、私もみなさんと同じように「シンかわいい」「ステラかわいい」「ネオ~、私の涙を返せ!」「も~!アスランは~!」などと、毎週じたばたしていた。

私の書いたものはあくまで、後藤リウが解釈した『SEED』であり、ほかの視聴者にはそれぞれの解釈があって当然だと思っている。

できるだけ原作に忠実にノベライズしたつもりだが、ひとつだけ、小説版では変えたいと思った箇所がある。最後のキラとデュランダルと対決シーンだ。

あの場面に、どうしてもシンも立ち会わせたかった。『DESTINY』小説版においては、ずっとシンを主人公として描いてきたので、あの場面に居ないのは不自然なような気がしたのだ。レイとも最後に合わせてあげたかったし。

でも、キラが来て、次にアスランが来て、最後にシンが登場したら、これはもうどうしてもコントになってしまう。三回に重ねるのはお笑いの基本だ。

というわけで、サンライズの担当者さんたちと知恵を絞ったあげく、ああいう形になった。通信機ごしに、レイと最後の会話を交わす、という形だ。

自分としては、頑張っただけの価値はあったと思っている。

この作品は2001年の事件に影響を受けて作られたと聞いている。

私自身もあの事件に強く衝撃を受けた。作家という職業柄、深夜にひとりでTVにかじりつき、まさしくリアルタイムで貿易センタービルが崩れ落ちるさまを見ていた。

こんなとき、私の書いているようなフィクションに何の意味があるだろうと思った。

書いているもの、書こうとしているものすべてが、どうしようもなく薄っぺらく感じられた。それまで楽しく愛しくて何より重要であったものたちが。

東日本大震災のときも、同じように感じられたクリエイトさんたちがいたようだ。

そのときの私も悩み、無力感に襲われて、ほかの作家さんに相談したりした。

「あまり考えない方がいいよ」

とも言われたが、どうしても考えずにはいられなかった。

そんな時に、『SEED』の仕事と出会ったのだ。

この作品は、私が心ゆくまで考え、悩みことを許してくれた。だから私は登場人物たちと一緒に、考え、悩み、答えを求めた。

戦いとは何なのか。敵とは誰なのか。人はなぜ争いをやめられないのか。

ここには明確な答えはない。

私も答えは見つけられなかった。それでも、考え抜くこと、書くことで、何かから抜けられた。

安定した地面にまた立つことができたような気がする。

むしろ明確な答えを提示することこそが、誤りなのではないだろうか。

いまの時代、人は極論に走りがちだ。現実を無視した、偏った意見を喧伝する者が、なぜかもてはやされる。

白だ、黒だ、と言い切ることには、たしかに爽快感があるかもしれない。

だが世の中は多彩な色であふれている。それをひとつの言葉で言い尽くすことなどできない。言葉を扱う商売をしている者だけに、自戒をこめて思う。

ひとつの単純な法則で、世界すべてを説明できる——などと語る人間には気をつけろ、ということだ。

この作品における「デステニィープラン」がそれにあたるだろう。

遺伝子による適性に従い、人々に適した役割を与え、社会を安定させるという計画。

私のような野良犬は、聞いたとたん牙をむいて反発してしまうような話だ。

だがもしかして、いまを生きる現代人には、案外受け入れられてしまうプランなのかもしれないと感じてしまう。

「デステニィープラン」に従えば、無駄な回り道などせずに、自分にいちばん合った仕事につける。そして社会の役に立てるのだ。文句を言ってもしかたない。それで苦しむことになっても、そもそも自分の遺伝子が悪いのだから。

最近よく見る「自己責任論」の究極の形といえよう。

だが、苦しむ者に「それはおまえが悪いからだ」という論理は、施政者の思惑を正当化する手段にすぎない。その論理を、民衆がみずから補強するのは、いかがなものかと思ってしまう。

いままた世の中が不安定になり、明日はどうなるのかわからない時代になっている。

劇場版のシナリオを書いていたときには、まったく予測できなかった事態が次々に起きている。

『SEED』放映から二十数年経って、世の中を覆う気分や状況も大きく変わった。

(なにしろキャリーバッグがあの頃とくらべて、こんなに普及している)

(そういえばリュックサックもあの頃より流行っている)

世の中は変わったが、この作品の中には、いまも古びない、普遍的なものが存在していると思う。ぜひ楽しんで、そして咀嚼して、ほんの少しの時間でいいので考えていただきたい。

たとえ答えが出なくでも。

私が関わらせていただいた劇場版も、根拠にはとても普遍的なテーマがある。

ぜひ時代を超えて愛される作品となってほしいと、心より願う。

后藤篇完结

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